きょう15日は終戦記念日。戦争を知る世代が少なくなる中で、地元・岡崎の戦災を少しでも正確に後世に伝えようとする人がいる。岡崎空襲を記録する会代表の香村克己さん(85)=岡崎市中町=はその1人で、「戦争の影響はまだ続いていると考えている。岡崎にどのようなことがあったのかをしっかりと伝える必要があります」と話す。(竹内雅紀)
香村さんは終戦時、愛知第二師範学校(現愛知教育大学)本科1年生の17歳。勤労動員で安城市内にある精密機械工場で旋盤の仕事をしており、玉音放送は工場の広場で聞いた。負けたという現実はすぐに理解できたが「不思議と悔し涙は流れなかった。文学少年だったせいか、若干冷めていたのかもしれない」と、かんかん照りで暑かった68年前の夏を振り返る。
工場には同じく勤労動員で女学生が来ていて、そのうちの1人と恋愛に発展した。戦時中でも人間味あふれる経験をしたことは今でも思い出になっているという。しかし、終戦により勤労動員はなくなり恋は終わった。
戦後は学校の演劇部活動に没頭。卒業後は教員になり、小学校でも演劇を指導した。戦争から学んだのは、だまされないこと。「自分の目で確かめ、判断して進むべきだ」と信念を強く持った。昭和50(1975)年に岡崎空襲を記録する会を立ち上げたメンバーの1人。20年7月20日未明に米軍爆撃機B29が岡崎を襲い、280人以上(記録する会調べ)の犠牲者を出した大惨事を後世に伝える役割を担う。
空襲時、当時住んでいた小呂村(現小呂町)の自宅の2階からB29が次々と焼夷弾を落とす光景を目の当たりにした。雨あられのような焼夷弾に危機を感じて防空壕へ避難。豊橋や一宮といった他都市に比べ岡崎の空襲犠牲者が少なかったことについては、1000人規模をはじめとする巨大な防空壕が備わっていたことが多くの人命を救ったと説明する。
記録する会では空襲体験記をこれまでに3巻発行している。現在、総集編となる第4巻の作成に向けて体験文や体験画、スケッチ図、復元図などを募集している。早ければ来年の夏には完成する見込み。
「68年たっても真実が調べ尽くされていない。正確な記録を残し、誤った記録を修正していかないと今後の教訓につながらない」と、最後の体験記に懸ける思いは熱い。また、市図書館交流プラザ(りぶら)では5年連続で「岡崎空襲と戦争展」を実施し、毎年多くの人が訪れ、地元の被害に足を止めている。
「精神的にはまだ戦争の影響が残っている。それだけ大きい出来事だった。決して風化させてはいけないし、忘れてはいけない」
体験文などの募集については香村さん(23―0798)へ。締め切りは9月30日。