きょう11日は東日本大震災からちょうど1年。世界を震撼させた未曽有の地震、大津波での犠牲者は1万5000人を超える。被災地から岡崎市には21世帯54人(同市集計分、3月1日現在)が避難。故郷から遠く離れた岡崎で、生きる希望を持って生活している2世帯の今を取材した。(竹内雅紀)
「先祖代々の土地を離れるのは後ろめたさがあったが、原発事故による放射線被ばくは避けたかった」
東京電力福島第一原発からわずか4キロメートルの福島県双葉町で土木建設業を営んでいた阿部利一さん(64)は当時を振り返る。地震発生時は車内で「タイヤがパンクしたような感覚だった」と異変に気付いた。津波の被害は免れたが、社内は足の踏み場もないほど散乱。翌12日朝には原発の不穏な動きを察知し、妻ミツ子さん(60)とともに避難所へ。避難所では寒さに苦しみ、提供される食事もおにぎり1つと乏しかった。14日早朝、慣れ親しんだ土地からの脱出を決意。自家用車で長女(31)が住む岡崎まで17時間かけてたどり着いた。
長女夫婦のアパートに身を寄せた後、市が避難者用に提供した公共住宅(19戸)に入居。多い時で4世帯が入居していたが、現在は阿部さん夫婦だけ。初めての土地で戸惑いはあったが、周辺住民の生活物資の差し入れに心を打たれた。利一さんは6月から県立岡崎聾学校で用務員補佐として働き、生計を立て始めた。福島ではエアコン要らずの生活だっただけに、岡崎の蒸し暑さ(熱帯夜)には音を上げた。警戒区域内の故郷に戻ったのは6、11月の2回。線量計を持参し、白い防護服を着て2時間以内に必要な物だけを車に積んだ。
震災から1年の今、東電への憤りは収まらない。「安全神話なんかうそだった。悲しくて悔しい。裏切られた」と唇をかみしめる。補償に関する交渉は難航し、訴訟も辞さない構えだ。震災に関しては少しずつ受け入れられるようになったが「あれは夢かと思うこともある」とつぶやく。
利一さんは幕末の会津藩主・松平容保に仕えた阿部家の6代目。福島に愛着はあるが、「もう戻るつもりはない。孫たちが安心して暮らせる所がいい」と、仙台市への移住を決断。聾学校を3月30日に退職し、4月からは宮城県石巻市の工務店で働く次男(27)と協力して、同県内で事業を展開していくという。
3月17日には岡崎で周辺住民有志による送別会が開かれる。「岡崎では大変お世話になった。私にとっては第2の故郷だ」
「場所によっては1年たった今でもほとんど変わっていないのが現状。復興ってそんなに簡単じゃない」
宮城県多賀城市から一家5人で避難してきた工藤辰也さん(40)。ゲーム機リースの仕事を営んでいたが、巨大津波で大口の得意先がすべて流された。地震発生時、長男清龍君(11)は学校、辰也さんは妻由香里さん(35)、長女沙羅ちゃん(5)、琥珀ちゃん(1)と買い物に出掛けていた。自宅アパートは高台のため、津波の襲来は防げたが近くの家や車が流される瞬間を目の当たりにした。清龍君を迎えに行った後、車中泊を経て母親が暮らす岡崎へ。18日から阿部さんと同じ公共住宅に住み始めた。清龍君は4月に愛宕小学校へ転入。半年ほどして祖母宅付近のアパートに転居し、10月から六ツ美南部小学校に通っている。沙羅ちゃんは故郷から持ってきたお気に入りのクマのぬいぐるみを常に抱いている。
辰也さんは2カ月に1度のペースで帰郷。「知り合いが何人も死んだ。あっという間の1年。今は余震があってもみんな平気な顔をしている。いちいち気にしていたら生活できない」と状況の変化を語る。被災からちょうど1年のきょうも現地での追悼式に参加する。「当時を思い出して眠れない時がある」と精神的なダメージを告白。一家で昨年夏に故郷の様子を見に行ったが「海に近い方はまだそのまま。船や車がひっくり返ったままだった」と清龍君。秋には戻る予定だったが、原発の影響もあって断念。「一体いつになったら帰れるのか」と望郷の念を抑えきれない。
この1年で2度の転校を経験した清龍君は「今までで1番早い1年だった。こっちでできた友達は僕を受け入れてくれたから寂しくない。多賀城に帰りたい気持ちはちょっとあるけど…」と明るく話す。阿部さんと同様に夏の暑さには苦戦したが、既に岡崎の生活に順応。2年生から始めたキックボクシングは岡崎に移住してからも続けており、週に数日名古屋のジムに通う。震災翌日には東京で試合が予定されていた。4月から6年生になる清龍君は「強い気持ちを持ってこれからも頑張りたい。震災なんかには負けない」と力強く語っている。