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東海愛知新聞

消えることのない記憶

岡崎の岡田さん 8歳で経験した戦争の恐怖

きょう15日は終戦記念日。戦後75年が経過し、戦争の経験や記憶がある人が年々減少する中、幼いきょうだい(弟と妹)を75年前の空襲で亡くした元高校教員岡田亮一さん(83)=岡崎市=は「戦争は私の脳裏から消えることのない記憶。2度と繰り返してはいけない」と静かに語る。()

岡田さんは当時8歳で、梅園国民学校の3年生だった。1945(昭和20)年に入ると、全国各地で米軍爆撃機B29による焼夷弾が頻繁に落とされ、被害に遭っていた。3月に名古屋市が大空襲に遭った際、岡田さんは岡崎市内の近所の小高い寺の敷地から西の空が真っ赤になっているのを見て「きれいだなあ」としか感じておらず、まるでひとごとだったという。しかし、7月20日未明の岡崎空襲では被害者になった。

同月19日午後11時ごろ、空襲警報を聞いた岡田さんは、母親ときょうだい3人(妹2人と弟)と一緒に近くの防空壕へと避難した。教員だった父親は、勤労動員という形で市内の工場に泊まり込んでいて留守だった。そのため、大事なものを乳母車に入れて、1学年下の妹と協力して運ぶのが、長男の岡田さんの役割だった。結局、その警報では何事も起きなかった。

自宅に戻り、しばらくした時だった。警報は鳴らなかったが、これまでに聞いたことがない「雷よりも大きな音」が響いた。岡田さんは、とっさに服と靴を持って外に飛び出た。外は明るく、“大音響”が続いた。この時、数々の焼夷弾が岡崎に落とされていた。自宅に近い場所に落ちた際には、道端の草むらに体を伏せていた。気が付くと、母親が岡田さんの手と1学年下の妹の手を握っていた。防空壕に避難すると、恐怖心が襲ってきた。目の前は一面“火の海”であり、家々が焼ける音がすさまじかったという。

数日後、2歳の弟と生後4カ月余の妹の遺体が焼け跡で発見された。小さな骨を見た時の鮮明な記憶と、焦げ臭い独特なにおいは「私の脳裏から生涯消えることはない」。

75年前の8月15日は、母親の実家がある西幡豆(現西尾市)で迎えた。正午からの玉音放送は、小学生にとっては難しかったが「何となく戦争が終わったということは感じ取った」と言う。「あの日は青空で、浮かんでいる白い雲を眺めながらぶらぶら歩いていたのを思い出す。安堵感があったのかな」と振り返る。

大学卒業後、出版社勤務を経て高校教師になった。県立知立高校で3年生の担任となった1990(平成2)年度、学級通信で書いた「担任からの一言 夏の(おも)い出」を生徒がまとめ、秋の文化祭でイラストとともに展示発表した。後に冊子となり、今でも大切に持っている。「戦争に関する歴史教育はきちんと行うべき。戦争は決して繰り返してはいけない。そのために語り継ぐことや記録することが大事になってくる」と強調する。

現在は「岡崎空襲慰霊碑をまもる会」の会長を務めており、毎年7月に岡崎市康生通西2の岡崎シビコ西広場にある慰霊碑の前での「市民慰霊祭」に足を運び、盆には市内の菩提寺で墓参りをする。

「自然を大切にし、教育を大事にしてほしい。それが私の願い」。若くして命を落とした弟と妹に思いをはせながら、75年前と同じ青空を見上げる。

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