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東海愛知新聞

傷痕残し語り継ぐ

松應寺 あす岡崎空襲から75年

岡崎市内に大きな被害をもたらした米軍爆撃機B29の「岡崎空襲」からあす20日で75年。戦争を経験した世代が少なくなる中、同市松本町の松應寺は当時の傷痕をそのまま残し、目に見える形で戦争の惨劇を語り継いでいる。()

「一晩で寺の歴史が変わった」

服部善樹住職(53)は祖父で先々代住職・秀倫さん(故人)らから伝え聞いたことをゆっくりと話す。

岡崎空襲では約280人が犠牲となり、松本町も壊滅的な被害に遭った。1945(昭和20)年7月20日未明、秀倫さんらは本堂北側の松平広忠(徳川家康の父)墓所(御廟所(ごびょうしょ))に逃げ込んだ。本堂は焼け落ちたが、御廟所は免れた。目前まで約1メートル間隔で焼夷弾(しょういだん)が落ちてきた。

服部住職は「御廟所が祖父らを守ってくれたという見方もできるが、御廟所で亡くなる覚悟があったのではないか」と推察する。

焼け野原状態の中で残ったのは御廟所と太子堂のみ。本堂は53年に再建された。寺には焼夷弾の残骸があるほか、本堂前の欠けたままの手水舎は、水が半分もたまらずに流れ落ちる。刻印からして手水舎は40年に新調されたが、わずか5年で被災し、75年間欠けたまま。御廟所前の石灯籠も爆風とみられる影響で一部が破損している。服部住職は「これらは後世に伝えるため、修復せずにあえて残したと聞いている。寺周辺は、今ではレトロな街並みと紹介されているが、つらい過去があったことも忘れないでほしい」と言う。

戦災で落下した鬼瓦も残している。空襲で右半分の色が変色したものもあれば、現在進行中の御廟所修復工事に携わっている瓦職人の手によって、焼損前の黒々した状態に復元されたものもある。職人によると「鬼の目の向きで作られた年代が分かる。遠くを見て、まなざしが優しいのは古い証拠」という。

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