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東海愛知新聞

失った四肢を越える志「中村久子の一生」

20日、岡崎・長誉館で講演会

 四肢を失った不自由さを恨むことなく、志を貫いて生きた中村久子についての講演会が、20日午後1時40分から岡崎市中町の丸石醸造・長誉館で開かれる。講師は岐阜県美濃加茂市在住の瀬上敏雄さん、演題は「中村久子の一生」。瀬上さんは大乗教常任理事、俳誌「南風」同人の80歳。昭和38(1963)年、瀬上さんが岡崎で講話したあと、同市在住だった久子と再会するなど岡崎は因縁深い町だ。

 3年間、市内に在住
 中村久子は明治30(1897)年11月、飛騨高山に生まれ、昭和43(1968)年3月、高山市で70年余の生涯を閉じた。
 3歳のとき、凍傷がもとで突発性脱疽だっそ(血管の炎症で血栓ができ、血が流れず末端組織が壊死)になり、両手の肘ひじ関節から先、両足の膝ひざ関節から下を切断。母の厳しいしつけと祖母の慈愛のもと、口と短い両腕を使って裁縫をしたり、口に毛筆をくわえて書写をしたりするなど生きる力を身につけ、20歳で自活のため見世物興行へ入った。
 5歳で父を、24歳で弟と母を亡くした久子は、婦人雑誌の懸賞実話に“生きる自分”をつづって応募、一等賞を受賞。33歳のとき、リウマチにより自由が利かない体で自活する女性と出会う。この間、2度の夫との死別、さらに結婚・離婚というつらい経験をし、36歳の昭和8年、4度目の結婚で家庭の幸せをつかんだ。
 私生活の困難を自らの意志と周囲の支援で切り開いていき、39歳の昭和12年4月にヘレン・ケラーと対面、作った人形を贈った。そして40歳で親鸞の『歎異抄』の教えを知る。一時、興行から身を引いていた久子は“あるがままの自分”を悟り、先の大戦末まで興行を続けた。昭和35年ごろ講演で岡崎を訪れたことが縁で、38年から3年間、同市羽根町に夫と住んだ。
 瀬上さんは昭和22年、郷里の岐阜県白鳥町で、講演の前夜、瀬上さんの分家に泊まった久子と出会った。
 「当時私は22歳。好奇心半分だったが、講演を聞き、切り紙細工をする姿を見て魂を揺さぶられた。その後、手紙のやり取りをしていたが途絶えた。岡崎での16年ぶりの再会は、世の出会いの不思議さ。あの方は正直で出会いを大切にされた。私はその後ろ姿から学んだ。今でも人生の師です」。久子との出会いは瀬上さん編著の『中村久子の一生』(春秋社)に詳しい。


 当日は午前11時からビデオで事前に勉強。昼食後に講演会、瀬上さんとの交流会(おやつ付き)。午前からの参加費は昼食代を含み1,500円、講演会のみは1,000円。参加希望者は18日までに主催の志葉会・辻本桂子さん(0564―32―1053)方へ。辻本さんは交流勉強会「おかざき塾」会員。

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