西尾市はこのほど、平成34年刊行予定の西尾市史編さん作業に関わる研究や調査の成果を発表する冊子「新編西尾市史研究」第2号を発刊した。その中で、同市が初めて調査に当たった江戸時代の旗本吉良家の菩提寺・華蔵寺(吉良町)所蔵の「禅定尼像」(非公開)に描かれている人物が、同寺を建立した吉良義定の母俊継尼か妻梅松院の2人のうちどちらかの可能性が高いと発表した。
「禅定尼像」(長さ78.2センチ、幅37.9センチ)は赤い小袖と打ち掛け姿で数珠を手にし、立て膝で座る女性の肖像画。絹と岩絵の具で描かれているが、劣化が激しく欠損部分が多い。軸に「禅定尼之画像月船和尚之賛」と墨書した紙が貼り付けられていることから禅定尼像と呼ばれている。「禅定尼」は出家せずに信仰の道に入った女性の呼称だが、同作は誰を描いたのか記録に残っていない。吉良家の当主や妻子らの肖像画はほとんど残っていないため、吉良家の歴史を知る貴重な絵画として調査結果が注目されていた。
調査では、目視や赤外線カメラの画像などで絵の輪郭や着物の絵柄、作風、書き文字といった特徴を分析。戦国末期から江戸初期の慶長年代(1596〜1615)に制作されたと判明した。調査に当たった学識者は、制作年から義定が禅定尼像を作らせたと考え、モデル候補を俊継尼と梅松院に絞り込んだ。
俊継尼は徳川家康のおばに当たり、吉良家再興の鍵となった。梅松院は今川氏真(今川義元の長男)の娘で、義定の子を3人出産。俊継尼が亡くなった3年後に死没しており、没年も近い。だが、禅定尼像は保管用の木箱や表書きがなく、華蔵寺にも記録が残っていなかったため、特定には至らなかった。
研究報告を執筆した県立芸術大学講師の本田光子さんは「俊継尼ならば、吉良家再興に尽力した母の姿をあたかも父存命時のごとく若々しく描き出したのではないか。梅松院ならば、配偶者を亡くした義定の追慕像と考えられる」としている。
新編西尾市史研究には、禅定尼像の研究のほか、市内で昨年度行われた動植物の生態、文化財調査などの結果や活動報告が記載されている。A4判76ページ。白黒印刷にカラー口絵付き。同市岩瀬文庫休憩室と同市資料館で販売している。1冊500円。なくなり次第終了。問い合わせは、同市文化振興課(0563―56―2459)へ。(横田沙貴)