岡崎市上地町の法華宗・願成寺一帯に中世の城郭「上地城」があった―。住職の鈴木宏正さん(52)らが、寺に隣接する上地八幡宮との境界に城の土塁や空堀らしき跡を確認し、このほど境内の一角に城の来歴を書いた看板を立てた。ただ、これまで発掘調査は行われておらず推定だとしている。(佐宗公雄)
鈴木住職夫妻は昨年秋、知人の勧めで、おかざき塾歴史教室講師の市橋章男さん(57)=同市日名中町=が市内で行った講演を聴講。市橋さんと面識を得た鈴木住職夫妻は今年1月、市橋さんを寺に招き、前住職で父親の日艸さん(89)と一緒に寺の周囲を見て回った。
願成寺の本堂と庫裡、墓地は上地八幡宮に隣接し字名は「宮脇」、日蓮上人石像と納霊堂などがある区域が「南藤六」となっている。
市橋さんは字名と土塁らしき跡に注目。『新編岡崎市史』(中世2)を調べ、「中世の城と館」の章で上地城の存在に関する記述を見つけた。
所在地は「上地町」で形態が「居館カ」、主な城主に「大見藤六」、地名が「字藤六」。出典は元文5(1740)年成立の地誌『三河国二葉松』―とあり、市橋さんは、この地に大見藤六と家臣団が居住したと推定。鈴木住職も城と上地八幡宮の由来を調べ、看板の説明文をまとめた。
このほど岡崎年金者組合の35人が寺を訪れ、日艸さんが寺の歴史などを説明、同行した市橋さんも上地城について解説した。
日艸さんは、日蓮上人石像(昭和34=1959年=除幕)の建立にあたって「高台の土を削って造成したが城址らしき物は無かった」と言う。
「歴史を掘り起こすことで、寺が地域の皆さんに親しみを持って集まってもらえる場になれば」。鈴木住職らは石像建立から50余年後の“新展開”に、半ば驚きながら調査が進むことを願っている。