東海愛知新聞バックナンバー

 11月29日【火】

■「上地城」あった?

岡崎 願成寺の境内域
武家居館か
字名と土塁跡から推定

岡崎市上地町の法華宗・願成寺一帯に中世の城郭「上地城」があった―。住職の鈴木宏正さん(52)らが、寺に隣接する上地八幡宮との境界に城の土塁や空堀らしき跡を確認し、このほど境内の一角に城の来歴を書いた看板を立てた。ただ、これまで発掘調査は行われておらず推定だとしている。(佐宗公雄)

■来歴の看板設置

鈴木住職夫妻は昨年秋、知人の勧めで、おかざき塾歴史教室講師の市橋章男さん(57)=同市日名中町=が市内で行った講演を聴講。市橋さんと面識を得た鈴木住職夫妻は今年1月、市橋さんを寺に招き、前住職で父親の日艸さん(89)と一緒に寺の周囲を見て回った。

願成寺の本堂と庫裡、墓地は上地八幡宮に隣接し字名は「宮脇」、日蓮上人石像と納霊堂などがある区域が「南藤六」となっている。

市橋さんは字名と土塁らしき跡に注目。『新編岡崎市史』(中世2)を調べ、「中世の城と館」の章で上地城の存在に関する記述を見つけた。

所在地は「上地町」で形態が「居館カ」、主な城主に「大見藤六」、地名が「字藤六」。出典は元文5(1740)年成立の地誌『三河国二葉松』―とあり、市橋さんは、この地に大見藤六と家臣団が居住したと推定。鈴木住職も城と上地八幡宮の由来を調べ、看板の説明文をまとめた。

このほど岡崎年金者組合の35人が寺を訪れ、日艸さんが寺の歴史などを説明、同行した市橋さんも上地城について解説した。

日艸さんは、日蓮上人石像(昭和34=1959年=除幕)の建立にあたって「高台の土を削って造成したが城址らしき物は無かった」と言う。

「歴史を掘り起こすことで、寺が地域の皆さんに親しみを持って集まってもらえる場になれば」。鈴木住職らは石像建立から50余年後の“新展開”に、半ば驚きながら調査が進むことを願っている。

■願成寺
室町時代初頭の貞治4(1365)年、西加茂郡広瀬郷(現豊田市)に創建。大久保彦左衛門ら大久保氏の菩提寺・長福寺(岡崎市竜泉寺町)にあった本堂が昭和4年、現在地に移築された。
■上地城
鎌倉時代初期、足利三代の義氏が承久の変(1221年)で戦功を挙げ三河守護になった。その後、足利一族の細川家俊(生没年不明)が上地に居館を造営。以後、足利配下の粟生氏が屋敷を構え、変遷を経て、大見藤六が居住したらしい。大見藤六は永禄6(1563)年秋に起きた三河一向一揆で一揆方に付き、徳川家康から廃城の処分を受けた。
■上地八幡宮
平安時代末期、大見藤六(初代?)の屋敷の隣に八幡宮を祭る祠(ほこら)があった。元暦元(1184)年、源頼朝の弟・範頼が大見藤六の屋敷で休息した際、祠に平家討伐の戦勝を祈願。平家滅亡後の建久元(1190)年、範頼が社殿を寄進建立した。

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