岡崎空襲から62年
遺族ら1400人が参列し追悼式
昭和20(1945)年7月20日未明の岡崎空襲から62年を迎え、岡崎市民会館大ホールで19日、戦没者及び戦災死者追悼式が行われた。式には遺族ら約1400人が参列し、戦没者の冥福を祈った。
戦争の犠牲となった同市出身の軍人、軍属、内外地の一般戦災死者は3658人で、うち岡崎空襲による死者は207人。参列者は追悼標にまつられた戦没者の霊に黙とうを捧げた。
追悼標の前で、市遺族連合会長の上原久さん(76)は「空襲では一瞬にして康生町より南が焼け野原となり、7500戸が焼け、200人以上が亡くなりました」と当時の惨状を振り返り、「我々は苦渋の歴史があったことを語り継がなければなりません。世界の永久平和が実現することを切に願っています」と追悼の辞を述べた。
この後、柴田紘一市長や中根勝美議長らをはじめ、各学区遺族会の代表らが、追悼標の前に置かれた献花台に白い菊の花を供えた。
岡崎空襲の慰霊碑をまもる会(梅田章次会長)の第31回市民慰霊祭が19日、岡崎市康生通西3の松坂屋岡崎店・クレオビル東北角にある慰霊碑前で市民約50人が参加して、しめやかに営まれた。
この慰霊碑は、岡崎空襲で亡くなった市民の霊を慰めるために、岡崎ロータリークラブの会員が中心になって建設運動を進め、昭和52(1977)年に完成した。以来、まもる会の手によって慰霊祭が続けられている。
柴田紘一市長の慰霊の言葉を小笠原盛久福祉保健部長が代読したあと、中岡崎町の菅井龍一さん(67)が被災の思い出を語った。当時6歳の菅井さんは伝馬通に住んでいた。「空襲警報が出たので母親たちと近くの石切場に避難した。夜なのに周りが異様に明るかった。焼け跡から熱で溶けたビー玉の塊かたまりを見つけたときは、ほんとうに悲しかった」と話した。
その後、参加者が1人ひとり慰霊碑の前に出て献花し、手を合わせた。
梅田会長は「ささやかな会でも続けてきたことに意義がある。これからも慰霊碑を守っていきたい」と話していた。
なお、戦争体験を語る会は8月5日午後1時30分から、岡崎市六供町の市民会館リハーサル二号室で語る会を開く。入場無料。