矢作川中流域の治水
碑文を手がかりに出版岡崎の渋谷さん
岡崎市大幡町の元中学校長・渋谷環さんが、『碑は語る―岡崎平野の治水と農業』(B5判・191ページ)を出版した。明治15(1882)年に起きた同市久後崎町地内の乙川左岸堤防決壊(俗称「久後切れ」「三島切れ」)後の治水事業の経過を記した「三郡輪中治水碑」をはじめ、旧額田・碧海・幡豆三郡に残る治水、土地改良にかかわる碑の撰文を手がかりに矢作川中流域の治水や農業の歴史をまとめた。
「久後切れ」あるいは「三島切れ」と呼ばれる災害は明治15年10月1日、岡崎市久後崎町字本郷の乙川左岸堤防が8、90メートルにわたって決壊し、「額田郡乙川以南17村、碧海郡矢作川以東26村、幡豆郡矢作古川以東26村」(三郡輪中治水碑)の合わせて69カ村が被害を受けた。
現在の岡崎市六名・福岡・六ツ美地区、幸田町菱池地区、西尾市三和地区が浸水したことになる。
この災害を教訓に愛知県の主管によって、乙川、矢作川、矢作古川、広田川、安藤川、占部川、須美川などの改修、菱池の排水改良が行われ、災害の防止はもちろん農業の振興にも役立ったと碑に記されている。
同碑は、高さ約3メートル、横1.5メートル、厚さ0.5メートルの花崗岩でできており、漢字約4,000字を使った漢文が刻まれている。
隣り合って、「南無阿弥陀仏」と彫られた溺死者追悼碑があり、碑の裏には亡くなった45人の氏名を読むことができる。
それに伴って右岸の補強工事も行われた。この工事の経過を記した碑「矢作川堤塘記念碑」が、岡崎市矢作町宝珠庵の矢作神社東の堤防に置かれている。建立時は矢作橋のたもとにあった。
この碑は現在、上半分が行方不明で下の部分だけが残っている。幸い大正時代の私家版『矢作町誌』に碑の全文が写されて遺っている。
「碑文に、地元への負担があまりにも重いため不満がおこり、一時工事が中断したことが書かれているのは大変珍しい」と渋谷さんは不思議がっている。
今回の調査では、たびたびの洪水に悩まされていた住民が、ほぼ90度曲がって南に流れている水路を直接矢作川につなぐ改修計画を県に提出したことを推測させる資料を発掘して紹介している。
渋谷さんは「提出した側の文書は見つかっていないが、計画差し止めの嘆願書と、それに対する県の回答書があるから間違いないだろう。水の問題は昔も今も住民にとって死活問題だということが分かる」と話している。
渋谷さんが調べた碑は20基を超す。「碑に向き合い碑文を読んでいると、治水や農業開発に汗した先人の苦労や英知、後世への期待と願いが迫ってくる」と『あとがき』で結んでいる。
約四百冊を印刷。図書館、市民センター、先輩、知人などに配布したが、残部が若干ある。問い合わせは、渋谷さん(48―2844)へ。