「岡崎空襲」から60年 平和への誓い新たに
市主催で戦没者と戦災死者の追悼式
昭和20(1945)年7月20日未明の「岡崎空襲」から60年。岡崎市では19日、市主催の戦没者及び戦災死者追悼式が行われた。遺族らは亡くなった人たちの冥福を祈りながら、平和への誓いを新たにした。
追悼式は市民会館で行われ、遺族ら約1,400人が出席。戦争の犠牲となった同市出身の軍人、軍属・一般戦災死亡者3,492柱(うち岡崎空襲による戦災死者207柱)の霊に黙とうを捧げた。
「岡崎市戦没者之霊」と書かれた標柱の前で、柴田紘一市長らが追悼の言葉を述べたあと、各学区遺族会の代表らが菊の花を手に次々と祭壇の前に進み、献花した。
この慰霊碑は、故加藤庄一さんや故小田幸平さんらが中心になって市民に呼びかけ、昭和52(1977)年に建立された。
以来、まもる会の手によって、毎年7月19日に市民慰霊祭が行われている。
梅雨も明けたこの日、朝から30度近い暑さのなか市民ら約50人が慰霊祭に集まった。
香村克己事務局長が「岡崎空襲を語り継ぎ、いつまでも平和な日本にしていきたい」と梅田会長に代わってあいさつ。
来賓の天野俊光市福祉保健部長からも慰霊のあいさつがあった。
今年の空襲体験の語り部は、岡崎市中岡崎町の安藤喬久さん(74)。
安藤さんは当時、県立岡崎中学校(現岡崎高校)の2年生で康生町に住んでいた。7月19日深夜、空襲警報が出て一度避難したが、解除になったので家に戻って眠りについたところ爆撃が始まり、家族4人で矢作橋を渡って矢作町へ逃げた。矢作川の右岸から燃えていく岡崎の街を見ているだけだったという。話を聞きながらうなずく高齢者もいた。
このあと、参加者全員が1人ずつ献花して犠牲者の冥福を祈った。
今年初めて参加したという康生通西の水越齊子さんは「小学校2年生のとき、友だちが避難先で焼夷弾の直撃を受けて死にました。今も忘れることができません。平和な世の中が続いてほしい」と話していた。