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東海愛知新聞

戻ってきた“日の丸”

岡崎の都築さん60年ぶりの再会に感無量
「寄せ書き」生存は8人

岡崎市吹矢町の都築道夫さん(76)が、終戦直前の昭和20(1945)年7月、軍隊から自宅に送った寄せ書きのある日の丸の旗が今年5月、60年ぶりに姉から自分の手元に戻った。「気にはしていたのですが、忙しさにまぎれて探すこともありませんでした」。都築さんは、旗との再会に感無量の表情だ。
 絹地の旗は、縦70センチ、横94センチの大きさ。右端に「壮也三河男子 海軍甲種飛行予科練習生清水道夫君」と大書してあり、日の丸の周りには、旧岩津町長加藤錫太郎さん(故人)はじめ、町内会、親類、同級生ら48人の名前が寄せ書きしてある。

  郷土の期待受け
 都築(旧姓清水)さんは岩津町の生まれ。昭和19年4月、岡崎商業学校(現県立岡崎商業高校)4年生のとき、志願して予科練(飛行予科訓練生の俗称)の試験を受け合格。同年7月、滋賀県大津市にあった滋賀海軍飛行隊に入隊した。
 当時、予科練に入隊することは、本人はもとより家族、出身校、郷土の誇りだった。都築さんも町中あげての見送りのなかを出発したという。
 寄せ書きされた日の丸の旗は、多くの人の期待と愛情が込められており、「お守り」として身に付ける習慣があった。

  特攻隊の一員に
 戦況が悪化した20年7月、軍は人間機雷「伏龍」を計画した。米軍の本土上陸地点を千葉県九十九里浜と想定。上陸用舟艇が海岸に接近したとき、あらかじめ海底に潜んでいた予科練生が、棒の先に装着した機雷で舟艇のスクリューを爆破して上陸を阻止する―という戦法。
 都築さんは特攻隊員に選抜された。訓練のため大津を離れるにあたり、自分の持ち物を実家に送り返した。都築さんは「戦争に勝つためなら自分の命も惜しくないと思った。死ぬ身には、お守りの日の丸もいらないから」と当時の心境を振り返る。

  姉が持っていた
 伏龍の訓練は、神奈川県久里浜で行われた。しかし都築さんたちは、出動命令を受けることなく終戦を迎えた。
 日の丸の旗は、実家の姉千夏子さん(84)が結婚するとき、自分の荷物と一緒に持って行った。復員した都築さんの目には触れることがなかった。
 今年5月、長野県南木曽町で兄弟会を開いた折、千夏子さんが持参した。「懐かしい人の名前を見て60年という時の流れを感じました」。
 寄せ書きをした人のうち、今生きているのは8人だけ。都築さんは、さっそく近くの密峰寺で亡くなった人たちの供養をした。
 「予科練の仲間とは今も交流がある。目的に向かって一生懸命やってきたことは無駄ではなかった」と当時のことを前向きにとらえている。

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